荒海

 三十代の初め、私の所に女子学生が見習いでやって来た。教育実習生である。
 第一印象は、とても明るい愉快な子であった。顔は都はるみに少し似ていた。ともかく、良い子だった。
 それからは、授業、放課後などで、当然の事だが、よく会話をした。性格の良い子だったから、私も毎日、楽しい気分で過ごす事が出来た。
 教生指導となると、実は色々と気がかりな事もあって、普通は余り楽しくないのだが、この子とは違った。
 気心が知れてくると、彼女は大学生活の事や、家族な事も話すようになった。どれも平凡な話だが、一々、楽しかった。彼女の雰囲気が楽しさを醸し出していたのだ。
 しかし、日が経つにつれ、若い二人だから、心の中に、ある変化が生じて来た。
 私も30代の初め、彼女は21歳。
 私の心の中に、彼女が居る時間が長くなった。彼女の方は学生らしかった服装に変化が生じてきた。幾分、派手になった。いや、若い子だから、それでいいのだが、確実に前とは違ってきた。時には、明らかに短すぎのスカートも着てきたりした。
 そんな彼女の心理は、よく分かった。私自身が、そうだったから。恋は男も女も賢くし、感覚を鋭くするものだ。
 ある時まで、確実に私は心の赴くままに、彼女と荒海に乗り出そうとしていた。
 実習期間が、あと一週間位になった時、私の心に変化が起きた。
 私は、それほど潔癖な人間でもないし、また道徳的な人間でもないと思っている。 
それでも、このまま進むのは良くないと判断したのである。恐らく、結婚して、まだ数年しか経っていなかったからだろう。
 翌日から、私は彼女と距離を置き始めた。少しずつ、である。数日後、彼女の態度に不安の影が走り始めた。私の真意が分からなくなったから。放課後も、指導時間が終わると、雑談も短く終わらせて、さっさっと私は引き上げるようになった。
 彼女の混乱、不安はどんどん大きくなっていった。それまでは明るく愉快な子だったのに、何か考え、塞ぎ込むような場面が多くなった。
 私自身も悩んだが、ここはブレーキを掛けなくてはならないと、言い聞かせた。
 心の中で葛藤が生じたが、意志で押さえ込んだ。
 時々、彼女が何か言いたそうな素振りを見せる事があった。それを察知すると、私は、すぐに話題を振って彼女の口を封じてしまった。
 いよいよ、最終の日。反省と激励のお茶会が、会議室で開かれるのが恒例であった。私は、開会のセレモニーが終わると、会議室を出て、そのまま用事と称して帰宅してしまった。
 その後、彼女の姿を見る事は、二度と無かった。
 それから、5,6年経って、私は自分がやった、大きな間違いに気づいた。いや、確かに間違っていたのだ。この世の、つまらない道徳律を守り、もっと大切な人間としての道を踏み外していたのだ。
 私から受けた仕打ちで、彼女の心の中には、大きな傷跡が残った筈である。それはもしかすると、一生、消えない人間不信となったかも知れない。
 あの時、私は彼女と荒海に乗りだして行くべきだったのである。